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2018年6月3日   第6回カルチャースクール    京街道歴史探索②     

 2018年6月3日旭陽中学校同窓会主催の第6回カルチャースクールが開催されました。
 今回は前回好評だった京街道と京阪電車の旧路軌道の面影と旭区のいにしえについて探索してきました。
 なお、今回もご案内は広報担当の宮田がさせて頂きます。


 集合地点は我が母校 旭陽中学校正門前。
 今回の参加者は、石川会長、清水副会長、浦西副会長、青野副会長、堀さん、竹内さん、近田さん、都甲さん、そして私宮田とガイドの寺坂さんの10名。
 今回は旭陽中学校から千林商店街等を経由して最終地点の大宮小学校までおよそ7キロのコース
昨年と一部内容は被っていますが、今回はさらに掘り下げます。
 昨年の7キロ歩きコースは、音を上げる人も続出。今回は移動手段を自転車としました。
 ガイドの寺坂さんは当年65歳の旭区ボランティアガイドの会員。年齢に関わらず至って健脚。
さて、皆さんは最後までついてこれるでしょうか?
 当日は城北公園フェア2018が開催されており打上は、城北公園で地ビールを飲もう!ってことになってます。  あ~楽しみ!

 【三興市場跡】
 まず初めに向かったのは、高殿3丁目の市場跡。
 昭和30年代高殿3丁目の安養寺の西側に、三興市場と呼ばれる市場がありました
市場には、酒屋、すし屋、お好み焼き屋、薬局、カメラ店、布団店、呉服店、文具店などがはいっていました。ここの酒屋、55年前の地図で確認すると「青野」とあります。同窓会副会長の青野さん家の酒屋さんだったんですね。

 市場ができるとお店も集まります。周りには中宮映劇(映画館)や電気屋、本屋、靴屋、パン屋さんなど、いろいろなお店が軒を連ねていました。近くにはお風呂屋さん(すみれ温泉 後の湯の花温泉)もありました。今はもう面影は無いけれど、閉ざされたシャッターが時代の移り変わりを表していますね。


【戦争の傷跡】
 

三興市場の近くに祠があります。 祠の由来を寺坂さんにきいてみました。昭和20年6月7日 大阪城にあった大阪砲兵工廠(軍事工場)を目標に、大量の爆撃機B29が大阪に襲いかかりました。後に言う第三回大阪大空襲です。その時は旭区も爆撃をうけています。この祠は、このあたりで戦火に巻き込まれ お亡くなりになった多くの方々の魂が、安らかに眠れることを祈り、作られたそうです。


  昭和前半から中期に渡り、旭区高殿のランドマークと言えば「ガスタンク」だったのではないでしょうか。
 はるか遠くからでもわかる独特な建造物。
 ガスの保有量により高くなったり低くなったりするガスタンクは、生きているようでもあり子供心に不思議な建造物でした。
 昭和50年頃までは、都市ガスとして石炭ガスが利用されていました。 
 その後、環境にやさしく、エネルギー効率の良い天然ガスへの切り替えが始まりガスタンクも役割を終了。その跡地にはスーパーが建っていましたが、今は広い土地だけでになっています。
 この後 何が建つのでしょうか。


 

【豆知識】
 このガスタンクの正しい名前は有水式ガスホルダー。
 有水式ガスホルダーは、中に水が入っていてその上に上下にスライドする大きなカップ(ガス槽)が載っています。
 ガスの出入りでガス槽が上がったり下がったりしています。
 低圧ガスの貯蔵設備として今も各地で使用されているようです。

2017年6月17日   第5回カルチャースクール   京街道歴史探索①

 2017年6月17日旭陽中学校同窓会主催のカルチャースクールが開催されました。
 今回は我らの旭区を縦断する京街道と京阪電車の旧路軌道の面影を京阪京橋駅から守口駅まで辿ってみました
 尚、ご案内は、歴史探索よりもその後のビールが楽しみな宮田(広報担当)がさせて頂きます。


 集合地点は京阪京橋駅とJR京橋駅をつなぐコンコース。京橋の待合場所といえばここでしょう。
 今回の参加者は、石川会長、清水副会長、堀さん、竹内さん、都甲さん、川崎さん、そして私宮田と今回の水先案内人寺坂さんの8名。
 今回は京橋から守口までおよそ7キロの距離を歩きます
 寺坂さんは旭区ボランティアガイドの会員をされていて、旭区のことならなんでもご承知!楽しみです。
 この日は晴れ 最高気温は27度 湿度も低めでちょうどいい天気。だけど平均年齢は60代?!
守口までの7キロ歩き通せるのでしょうか? ウーンあやしいなあ~
 はてさて、守口まで辿りつけるのでしょうか…


 【京橋駅前の石碑】
 京街道は豊臣秀吉が大阪城と伏見桃山城を最短距離で結ぶ道として文禄5年に淀川左岸に「文禄堤」を作ったのが始まりとされています。
 その後 徳川の時代になり、始発点が京橋口から高麗橋に変わり東海道53次に伏見宿、淀宿、枚方宿、守口宿の4つの宿場を加え東海道57次として人々を受入れ続ける街道となります。

 京橋の駅近くにある道標に書かれている文字は「右(東方面)大和(奈良)」「左(北方面)京みち」と書かれています道標には「文政」の文字もあります文政は1818年~1830年、徳川将軍で言えば徳川家斉の時代にあたります。約300年間 沢山の人々を案内し続けていたのでしょう。


 入り口の上には「BIGIN KYOUBASHI」の文字とローマの休日で有名な「真実の口」が待っています。

 なんでBIGINなん?寺坂さん曰く「京街道の始まりを意味している」とのこと。それでなんで「真実の口」のオブジェなん?

 後で調べると真実の口の下の茂みの中に解説文がありました「京橋中央商店街は嘘偽りのないまっすぐな商店街ですよ」ということを意味しているそうな。


 京街道には秀吉の戦術が隠されています。それは「七曲り」です。
 街道をくねくねと湾曲させることで直線で一気に攻め込むことができなくなるようにするとともに俯瞰して、相手の動きを読み取ることができるのです。 
 うーん たしかにくねくねしてるわなぁ

 その昔、関目の七曲り当たりに大宮神社の参道の起点を表す一の鳥居があったってご存知ですか?参道の長さは12町(約1.3㎞)幅六尺(約1.8m)で「大宮道」と呼ばれ松並木が続いていたそうです。参道の途中に神社の高い建物(小高いところに建った建物の説もあり)がありました。立派な建物のことを「殿」(宮殿の殿)といいます。そう、「高い」「立派な建物!殿」すなわち「高殿」です。高殿小学校の名前は、このあたりに「高殿」があったとして付けられました。1971年には「高殿」がこのエリアの正式地名となってます。


 井路川(いじがわ)って聞いたことありますか?江戸時代以降、水路や運搬の為に井路川という水路が彫られていました。旭区内でも左記の通り水路でいっぱい。

 このあたりの井路川は、淀川水系にあたり水質もよく、蛍もとんでいたそうです。

 千林界隈にのこる塀元が石垣に囲まれたお屋敷も井路川に面していた跡のようですよ。井路川は水路以外にも洗濯や近くの農家の方が肥料として肥汲みにもやってきたそうです。


 千林商店街の少し外れにとっても有名な長屋があります。その名も「九軒長屋」
 戦火を逃れて、保存状態もとっても良し。
 こちらの長屋は昭和12年に建てられた大正時代の長屋の特徴を残した建築物。
 九軒の軒(のき)が連なる姿はとってもレトロ。
 この前を通るだけでノスタルジックな気持ちになれるのはなぜでしょう?

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